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明治維新~日清戦争前(明治元年~明治25年/1868~1892)
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作詞 黒川真頼
作曲 不詳

人は驚く旅路なり
人は危ぶむ旅地なり
過ぎ行く道は数千里
分け行く道は未開の地

人の恐れるシベリアの
道一人行く旅衣
かかる境に思い立つ
福島中佐の雄々しさを

君ベルリンを出ずる時
駒に打ち乗り言いけらく
成ると成らぬの二道ぞ
その一道は死ぬるのみ

さらばと言いて打つ鞭の
音こそ耳に留まれど
行方も知らず白雲よ
影だに見えず白雲に

行けど果て無し砂漠の地
人影稀なり広野原
別れど尽きず五百重山
鳥も声せぬ峰続き

過ぎ行く道は欧州の
ますら武夫も知らぬ道
踏み分け越えて恙無く
キヤクダ(?)に着くぞ勇ましき

事なし終えぬさらばとて
照る日の本に帰る君
高き勲を較ぶれば
ウラルの山も麓なり

轟く御名に比ぶれば
イルティッシュ河は音も無し
語り伝えん万世に
文に伝えん万世に
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作詞 不詳
作曲 不詳

北氷洋の探検と
アフリカ内部の探検は
かつて聞きつる事なるが
三千八百有余里の
長き行路をただ一人
馬に乗り乗り苦を凌ぎ
ドイツを出でて遥々と
ロシアの都に打ち向かい
モスクワ森を経歴し
ウラルの峰を打ち越えて
シベリア内部の各地より
またもアルタイ山を越え
蒙古に入り行き行きて
義爾古科(?)に辿り出で
ウラジオストック港より
道を転じて西の方
満州領に進み入り
吉林盛京打ち過ぎて
山海開より支那を経て
帰朝せらるる雄々しきよ
そもそも旅立ちのその原因は
二十四年の五月もて
帰朝の途次はかくせよと
参謀本部の命を受け
さてこそここに及びたれ
さてこそここに及びたれ
かく大任を得れしは
君が体躯の健やかと
士気の猛きと各国の
言葉と通じ給えるに
因る事ぞと知れける
これや少佐が身と家の
栄えのをならで帝国の
軍隊間の誉れなり
実に帝国の誉れなり
実に帝国の誉れなり
作詞 不詳
作曲 不詳

忠勇無断の振る舞いは
福島中佐の遠征よ
嘶く駒に鞭を上げ
過ぎし行道は白露の
鳥も声せぬ峰続き

アルタイ颪の大吹雪
寒烈肌を劈くも
折こそ繁き雨霰
炎熱骨を溶かすとも
行けど果てなき砂漠の地

蒙古の月の冴ゆる夜に
木の根を枕岩陰を
仮の寝屋と頼みつつ
人も恐れるシベリアの
猛獣群をなす中も

腰に帯せる日本刀
抜いて狼虎を払いつつ
三千五百有余里を
踏み分け越し旅衣
矢猛心の一念は

なるとならぬの二道ぞ
その一道は死ぬるのみ
乗り行く駒は斃るるも
よしや命は絶えるまで
後へは退けぬますらおが

千苦万苦の功績で
目出度い帰朝の時至り
天皇陛下に拝謁し
老若男女は寄り集い
歓迎頌歌の声高く

美名を天下に轟かし
武門の鑑と後の世に
君が誉れは国の為
君が誉れは国の為
作詞 山田美妙斎
作曲 小山作之助

敵は幾万ありとても 
全て烏合の勢なるぞ 
烏合の勢にあらずとも 
味方に正しき道理あり 
邪はそれ正に勝ち難く 
直は曲にぞ勝栗の 
固き心の一徹は 
石に矢の立つ例あり 
石に立つ矢の例あり 
などて恐るることやある 
などて弛とうことやある

風にひらめく連隊旗 
印は昇る旭子よ 
旗は飛び来る弾丸に 
破るるほどこそ誉れなれ 
身は日の本のつわものよ 
旗にな恥じそ進めよや 
斃るるまでも進めよや 
裂かるるまでも進めよや
旗にな恥じぞ恥じなせそ 
などて恐るることやある 
などて弛とうことやある

破れて逃ぐるは国の恥 
進みて死ぬるは身の誉れ 
瓦となりて残るより 
玉となりつつ砕けよや 
畳の上にて死ぬ事は 
武士のなすべき道ならず 
骸を馬蹄にかけられつ 
身を野晒しになしてこそ 
世にもののふの義と言わめ 
などて恐るることやある 
などて弛とうことやある
作詞 石黒行平
作曲 永井建子

道は六百八十里 
長門の浦を船出して 
早二年を故郷の 
山を遥かに眺むれば 
曇りがちなる旅の空 
晴らさにゃならぬ日の本の 
御国の為と思いなば 
露より脆き人の身は
ここが命の捨て所
身には弾傷剣傷 

負えども着けぬ赤十字 
猛き味方の勢いに 
敵の運命極まりて 
脱ぎし兜を鉾の尖 
差してぞ帰る勝ち戦 
空の曇りも今日晴れて
一際高き富士の山 
嶺の白雪消ゆるとも 
手柄を立てしますらおの 
誉れは長く尽きざらん
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